昭和39年11月14日 朝の御理解



 ある時、小倉の桂、初代の桂先生の事ですか、神様が願いに来る氏子の信心はでけんでもおかげはさっさとその渡して上げと。この世でそのおかげの代金を支払わない氏子があるならば、あの世までもお金を取りにいってやるからとおっしゃったそうです。神様に、後から集金に来てもらわねば成らんようなおかげではいけませんですね。神様に、いうなら借金になるようなおかげではいけないと思うです。
そこで、ならどういうようなおかげを頂いたら借金になるかと、もちろん信心も出けんのに おかげを頂くという事なんでしょうけれれども。本当の信心をさせてもらわなければいけない。本当の信心をさせてもらわなければ借金になる。本当の信心とは、誰でもそげん本当の信心ちゃ中々出けるもんじゃないと、こう思うんですけれども。大体、神様、本当の信心とはですね。
 信心させて頂いておれば、一年、一年有難うなってくるとこう仰る。信心させて頂いとりゃ一年一年有り難うなって来ると言う様な信心でなからなければ本当のもんじゃないと。まあいうなら朝の御祈念にでもお参りしておられる皆さんなら、信心はだから本当なもんだとこう思うんです。ね、例えばこの信心を悲しい時の神頼みと、ただ困った時だけの神様、こういう信心が本当の信心じゃないのだと、こう思いますね。
 本当のものとか嘘のものとか是はあの例えば、善の種を蒔けば善の芽が出る。悪の種 を蒔けば、悪の芽が出る。これは悪でも本当なものと本当なもんじゃないのがある。善でも本当な善と本当の善でない善がある。例えばここに柿の種なら柿の種があると致しましょうか。本当の柿の種だったら必ず柿の芽が出る。形は一つも変わらない。けれどもそれがあの作り物であったとするならね、これはもう芽は出ないです。ね、
 私共が有難そうに大祓いやら心経あげておってもです、心に真がないならば神に嘘を言うようなものじゃと教祖は仰っておられます。ね、それではだから芽が出らん。私達が例えば非常にこの気短な人がおりますね。短気な人がおる。ですぐそのプリプリ腹かいたり、怒ったりしておる。そりゃほんとなもんですから、必ず腹かかねばなならんような芽が出るです、また。ね、
 それと反対に心から喜ぶ人がある。必ず喜びの芽が出るです。ね、だからあの本当のもんであれば悪でも善でもやはり同じ事です。ところが私共の場合はもう悪と言うと、ちょっとなんですけれども、例えば腹を立てると言った様な事ですたいね。本当にあれがその嘘に腹立てられるようになるといいですね。いかにも腹立てておるようにあっても、真実、心から腹立てておるのじゃない。
 これならば、決して腹立たしいような芽は出ないのですけど、本気で腹かくから、また腹かかねばならないような芽が出るのですよ。そんな人がありますよ。もう腹かいとるごたるふうにしとるが、心じゃニコニコ笑っとる人が、だからそう言う様なおかげ頂かなければいけません。善の方は反対、いかにもニコニコとして有難そうにしっとても、心からニコニコしていないという人がある。
 それでは、いわばニコニコの芽は、喜びの芽は出ません。ね、信心をさせて頂いてから、ここんところを分からせて頂きますと、私共が、たとえば喜びとか腹立ちとかいうような事でもです、改めて行かなければ、自分の喜びはほんな喜びじゃないと、んね、口だけの喜びだと、するならこれはいうなら偽物の喜びですから、これでは喜びが喜びを産んで行くという事になってこないと。
 だからそれとは反対の事の場合でもそうです。ね、もうこれは絶対のもんですから、ね、だらしがないと本当にだらしない人なら、まただらしないその芽が出てくるです。例えば本当の信心が出けんなり、おかげを頂くかとするならです、それはいうならま贋金でものを買うておるようなもんです。ですからそれを又「ありゃあんた贋金じゃったから」というてから、おかげを取り戻されるような事になります。
 ですから本当の信心をさせてもらわにゃなりません。本当の信心とは、難しゅう思っ ちゃならん。ね、本当に一年一年有り難うなって行くような信心、それはもう日頃頂いております。どういうような信心させて頂いたら有り難うなるか。一年一年有り難うなる。信心ちゃ有り難いもんだなあと、と、本当の信心生活が出来るということを有り難いと感じさせてもらう信心。
 これなら必ずこの有難いというおかげが、おかげの芽が必ず出ます。それもそれが本当のものでないならばです、有難いと、いかに有難い有難いと言うておっても神に嘘を言うておるようなものですから、有難い芽は出ません。ですからそれと反対の事も、一つ考えてみなければいけません。真剣に腹立てる、なら、又、真剣に腹立ちの種を蒔いたようなものだと、先ず悟らなければいけません。
 本当に、例えば、心から意地の悪い種を蒔きゃ、やっぱり意地の悪い、意地悪い芽が出てくる事間違いありません。ね、そう銘々信心させて頂いてから、折角信心させて頂くのでございますから、一つ、本当の信心をさせて頂くのを願わないけません。ね、本当の信心というのは、一年一年有り難うなっていくという信心。信心をさせて頂いておる、もうそれに尻に火がついたようになってお願い参りに来る。
 そしておかげ頂いても、それは丁度、神様から借金をするようなもの。この世で払われんならあの世までも、神様、取りに行ってやるとおっしゃる位にあるのですから。あの世までも神様に借金取りに来てもらわねばならんような事では、こんな馬鹿な話はありませんものね。もちろんそれは、私共の信心がほんな信心ってなんて、そりゃとても出けるもんじゃなかろうと 言わずにです。
 問題は私の信心が、信心をさせて頂いておるという事が有難い。信心させて頂いておるという事が有難いという信心。しかも、それが一年一年育って行っておるという信心ならそれは本当なものですから、難しい事ではないでしょが。ね、絶対のもの。これは悪の種には悪、悪の芽が出る。善の種には善の芽が出るのです。喜びの種には、喜びの芽が出るです。腹立ちの種には、腹立ちの芽が出るです。
 いつもプリプリしとらんならん。もう本気でプリプリしとらんならん、もう本気でプリプリしとらんならん位じゅつない事ないですね。もうそれこそそういう悪の方ね腹立ちとか情けないとかと情けなさそうな、もう本当に情けないという事でも、本当に情けないのと顔だけで情けない口だけで情けないと言うておるのとでは大変違います。もう本当に情けないと思うておるのなら、もうこりゃ必ず本当に情けない芽が出るです。
 だからその方はひとつ出来るだけ偽物がいいですよ。腹立ちなんかというものはですたい、もう本当に偽物の腹立ちがいいですよ。本当に腹どん立てなさんな。ね、本当にまた腹立たしい芽が必ず出るです。だから腹立ちじゃなくて良いものの方、一つ作り物、偽物の金じゃなからにゃならん。それと反対の方のはで例えなら、お客さんならお客さん買うて貰わにやんばっかりで、有難う御座いますじゃほんなこつじゃない。
 心の底からやはり有り難いというのが有難いなら、必ず又有り難いお客さんになって帰って来て下さる。ね、ほんとに一つもうこれはもう絶対の理ですから、ね、いうならもう絶対の法則なのですから。ね、喜びの種には喜びの芽が必ず出ます。だからその喜びが偽の喜びであったら、いかにうれしそうに喜ばしそうに言うておってもです、神様に嘘を言うておるようなものですから。
 まあおかげ頂いても、それは神様に借金になるようなおかげであるという事。ね、さぁそれで頂きし終えたようであってもです、本当のものじゃないならば、神様がさぁあの世までも集金に来なさらなければならん。か集金に来てこらなければならん。今日の御理解、それだけなんですけども、私達が頂いておる信心がほんとな信心に向かって進んでおるかどうかという事を確かめにゃならん。
 私が有り難うございますと言うておるのが、本当とにほんとな有り難さかどうかということを確かめてみなければいかん。私がはらだたしい、腹が立っておるというのが、ほんとに、これはほんとの腹立ちじゃなかろうかと。場合によってはですね、やっぱり腹かいたるごたる風ばしとかんなん時もありますもんね。ありますよ。けども心の中から腹かいととじゃないと。
 それを心から腹かいとるとするならです、心から情けないと思とったりするならです、もうそれは必ず本当なものだから、必ずその芽が出るですそういう。ね、ですからまぁお互いの場合ですね、本当の腹立ちもありゃ、本当の喜びもあるという位ではですたい、もうおなし事ですよ。有難い事もありゃ有難くない事もあると有り難くない事もありゃ、有難い事もあるという、これならつまらんでしょうが。
 プラスマイナス、プラスマイナスとおんなし事のことですから。折角信心させて頂くのですから、ほんとに腹立たしいと言った様な事が、段々なくなっていくおかげを頂だかにゃいけんです。ね、一遍にはなかなか出来ませんにしても、そして有難い方だけが強くなって行くという事。まあいうならばこのもう一事が万事そうなんですよ。それはもう私共の日常の上に様々なその種がございましょう。
 ですから今日私はその腹立ちとか喜びとかというだけの、その種ですけれども外にも色々ありますよ。ね、心から相済まんなあ、と思う様な種もありましょう。ね、どうでも一つ本当なものになって行かにゃならん。それは有難い方の面だけをそしてではない。ね、いうなら腹立ちの事などはですたい、心から腹の立たんで済むような、ね、形の上には腹立っておるように見えておってもそれは作り種だと。
 作った腹立ちだと言う様な風になっていかにゃならん。ね、有難い方の方だけが、本当のものになっていかなければならん。そこに私は信心はいよいよ一年一年有り難うなって来るという事になる。一年一年、本当に有り難くなって来るという事は、一年一年おかげが本当なものになって来るという事になる。ね、神様に集金に来てもらわなければなない様なおかげではいけません。
 だから皆さんの場合は、私朝の御祈念にでもお参りされる方の場合はです、皆んなほんなもんだと私は思うです。ね、今日でもやっぱり中にはねもう尻に火が着いた様に難儀な時だけお参りする。これではもう絶対ほんなもんじゃないですね。ですから初めの間はそう言う所からま、入信のおかげ頂くので御座いますけれどもです、そう言う様なものちょっと感じるならですね、それを本当なものにして行かなければいけん。本当のお金で、ほんとの品物を頂くものでなからにゃいけません。
 贋金で買うときゃ買い澄ましておるようであっても、必ずそれは後で贋金という事はわかります。ですからそれはまたほんとなものを、お金をあげるかでなかったら、その品物を返すかしななきゃなりません。どうぞ私共の日々の中にですたい、ね、今有り難うございますというておるのはほんとの有難さか、今私が腹が立っておるのはほんとな腹立てとるじゃなかろうか。ほんとの腹立ちでんあるならば、それはほんとに改めさせて頂いて、腹立てるだんじゃない、お礼を申し上げる事であるとか。
 またお詫びさせて頂くものであるとかという風にして、もう消して行かなきゃいけん。ね、どうでんしかし、腹立たごたあるふうに、腹立てにゃいけん時は、偽の腹立ちが装える位なおかげを頂かにゃいけん。ほんなものであっては、やはり必ず芽が出るのですから。ね、どうぞ、有難い、まあーとっても言うなら平凡な事ですけども、必ず確かにほんとに有難いという心には、必ず有難いという芽が出ます。
  おかげ頂きました。